宮本輝の短編集『五千回の生死』で三番目に好きな話。(一番は『トマトの話』、二番目は『五千回の生死』)作者宮本輝自身が患った不安神経症(パニック障害)に罹っている男の話。舞台は芦屋浜で、大規模な住宅地建設のため、一帯を埋め立てる工事現場で物語は繰り広げられる。この工事は史実に基づいており、どうも昭和44年頃の話のようだ。

芦屋浜の今
バケツの底 あらすじ
パニック障害を患っていた男は休職中の身であったが、ふたり目の子が伝い歩きを始め、どうにも再び働かなければならない状況に追い込まれた。
簡単な事務職の仕事を探し、男はマガキ商店に入社する。マガキ商店は、工事現場に細々したものを納品する小さな個人商店である。社長は強烈な学歴コンプレックスの持ち主で、大学卒の主人公に大学を出たのにこんなこともわからないのかと執拗に嫌味を言う。同じ職場には中卒の男がいるのだが、社長は彼にも強く当たるのだ。
事務職を希望していたが、社長はせっかく大卒の男が来たのだからと彼を芦屋浜の広大な埋め立て工事現場の営業としてわりあててしまう。男は日々めまいに襲われながら工事現場へと向かう。
五日間ほど降り続く雨で、工事現場は広大な泥地と化していた。現場にはパイルが打ちこまれているのだが、パイルの場所を見分けるのが困難となり、その穴に落ちるという事故が発生した。そのため、穴をふさぐものが必要であるという。
社長に相談したところ、ブリキのバケツの底がバケツ屋の倉庫にいくらでも眠っている。廃棄寸前となっているそのブリキのバケツの底を買い上げ、それを穴に括りつけろといわれる。
夕方、数百に及ぶ大量のブリキのバケツの底が持ち込まれる。それを設置するのは、現場の若い一人の社員である。土砂降りの雨の中、彼はひとりでバケツの底をつけ始める。誰一人として手伝おうとはしない。
逃げてやり過ごそうとすれば、いつかもっと悪い環境へと追い込まれていくのだなァと思いながら。
主人公は、彼を手伝い、雨に打たれながらバケツの底を括りつけていく……。
泥と宮本輝
宮本輝の初期作品は泥臭いのだが、そういう泥でなく、泥そのものの登場が多い。
トラックに満載された”泥”。それを避けようとするが、わずかな幅の道の向こうに広がるのは、”腐肉のような泥”。打ちこまれたパイルをチェックする倉持の姿は、”泥”なのか人間なのかわからない。
どうも宮本輝が描く泥には、仏陀のおわすところに咲く蓮の花のイメージがあるようだ。蓮の花というのは、泥の中からしか咲かない。
最後の一節で主人公は今いる自身の状況自体を泥にまみれたバケツの底であると評する。
泥とは貧しく悲しく辛い現実社会のことだけではない。『泥の河』から続く泥のイメージは、”命そのもの”である。
生きていることと死んでいることは、とても近いところにある。水面を境にしたかのような、ほんのわずかな差なのかもしれない。わずかな差ではあるが、冒頭の男は、なぜ馬車に引かれ死んだのか。そして、なぜ自分は生きているのか。生きていることと死んでいることは、同じことなのかもしれないが、生きているということ自体に何か意味が、意義が、あるのではないだろうか。
このテーマが本作にも根底に流れているのだ。生を見つめる宮本輝氏の眼差しと感性をぜひ味わっていただきたい。
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