『五千回の生死』の作者は宮本輝さんですね。9つの短編が入った短編集『五千回の生死』の表題作で、4作目に入っています。新潮文庫から発行されています。
世界で一番好きな短編集で、恐るべき才気に満ちています。天才が書いた小説なので、ぜひご一読いただきたいですね。
『五千回の生死』のあらすじ
小さなデザイン事務所を営む男が、十二年ぶりに会った友人に披露する”とっておきの話”、それが『五千回の生死』です。この男の語り口で全編が構成されています。
昔々、大学二年生の冬のこと。亡くなった父親の遺品から出てきた1929年製のダンヒル(イギリスの高級ブランド)のライターを見て、友人は一万円で譲ってくれとせがんだことがありました。
頼む、譲ってくれ。いや、一万円で少ないなら、いや、五万出しても構わない……。当時は大学の初任給が三万くらいだそうで、今の時代だと40万円くらいでしょうか。スゴイ。
当時お金がなかった語りては、喉から手が出るほどそのお金がほしかったのですが、煙草に火をつけるにはマッチで良いという無頓着な父親がわざわざ持っていたこのライターに思い出があるのではと断わってしまう。
しかし、それから十日後、借金取りが押し寄せ、ついに主人公はダンヒルのライターを手放すこと決意する。手元にあった金は、自分が住む福島区から堺市にある友人宅への片道料金だけだった。
二月十五日。耳がちぎれるほど寒い冬の日、友人宅のチャイムを鳴らすが友人は不在であった。隣人によると、九州へ旅行で出たのだという。無一文で夜一人放り出された主人公は、歩いて家まで帰ることを決意する。
底冷えの寒さの夜道を、パトカーでも通らないかととぼとぼ歩く主人公。その後ろを、一台の自転車がつけて来ていた。坊主頭の二十四、五の男。彼は福島まで送ってやると言う。主人公は、俺に付き合っていると、お前も死ぬぞという。男は、「俺、死にたいねん。」という。
「俺、一日に五千回ぐらい、死にとうなったり、生きとうなったりするんや。兄貴も病院の医者も、それがお前の病気やて言いよるんやけど、俺はなんぼ考えても病気とは思われへん。みんなそうと違うんか? お前はどうや?」
……というお話。オチもしっかりついていて、落とし方も秀逸。
五千回の生死と命
青年は、宮本輝自身の死生観を荒々しく凝縮したような存在である。『幻の光』や『錦繍』で描こうとしたはずの、終わりなき生命を彼は体現している。
五千回どころやない、五万回、五十万回、いや、もっともっとかぞえきられへんほど、俺は死んできたんや。猛烈に生きとうなった瞬間に、それがはっきり判るんや。その代わり、死にたいときは、自分の生まれる前のことは、さっぱり思い出されへんねん。何十万回も生まれ変わってきたことが、判らへんようになるんや。
主人公と青年との間には奇妙な友情が芽生えて行き、主人公は自己の存在をその男に託し、一緒に死んだると叫ぶ。その時、主人公は三年ぶりに生きたくも死にたくもない、”どちらでもない”状態になった。
理解されることで、青年は安定を得たのだろうか……。その答えは、どうにもこの短編の中には見つけられない……と思う。
一日に五千回生きたくなったり死にたくなったりする人間はおかしいだろうか? 読んでいると、むしろ、一日に一度も生きたいとも、死にたいとも思わぬ自分の方が異常な気さえしてくる……。
死は普段、果てしなく遠い存在だ。死という存在を押しこめ、心の奥底にある感情をうやむやにし、暮らしている。ふらつく足元を、社会という構造がしっかと受け止め、日常へとひた走らせてくれるのだが……。
時に、死は生の確かさを感じさせてくれる。生というあやふやなものに確かな裏打ちを与えてくれる。そういうことを教えてくれる稀有な小説だ。だから、妙にさみしかったり虚しかったりするときは再読する。
闇を描いて光を見せ、死を描いて生を浮かび上がらせる。『トマトの話』しかり、もうひとつ私がこの短編集で大好きな『バケツの底』しかり、この時期の宮本輝氏には、いったい何が見えていたのだろう……。