芥川龍之介に『ひょっとこ』という小説があります。大正3年12月に発表された作品です。まだ『羅生門』とか書く前の、芥川竜之介としては非常に初期に書かれた短編小説です。
『ひょっとこ』のあらすじ
舞台は浅草吾妻橋の辺り。この橋を通り過ぎていく花見船を見ようと人だかりができておりました。

こんな感じのところですね。今はスカイツリーが見えるんですねえ。また、アサヒビールで知られておりますが、当時は札幌ビールですね。レンガ壁のつきるところから土手の上まで桜が続く、桜の名所として当時から知られていました。
船は連なって上ってきており、大層にぎわっておりました。船が通るたびに歓声が上がり、わあとかバカとか言っています。
それで、ある船の上でひょっとこをかぶったバカ踊りしている一人の男がおりました。それは本当にバカ踊りで、踊りとも思えぬいい加減な身振り手振りを繰り返す、ただのべろべろのおじさんなのです。足もおぼつきません。それがまた橋の上の人にウケておりました。
その時船がグラッと揺れて、おじさんが足をフラフラさせると、一周回って、それから仰向けに船の上に倒れました。ざまあねえわとみんな笑ってたのですが、少しずつその笑いは収まり、船は急いで岸へと向かいます。このひょっとこをかぶっていた山村平吉という男、脳溢血で死んでしまったのです。
平吉は絵の具屋で齢45歳で亡くなりました。店員を2,3人ほど抱えただけの、大した店ではないのですが、日清戦争の折に岩緑青を買い占めた辺りでちょっと儲かったくらいでした。
丸顔の頭のちょっと禿げたひょうきんなおじさんで、まあお酒が好きな人でした。お酒を飲むとついつい踊っちゃうような人でした。
しかし、ただの酒好きではないのです。酒を飲むと、別人になるのです。酔っぱらったら何も覚えてない、という人がいますが、平吉の場合は違います。すべて覚えております。普段は気の弱いおじさんですが、酔ったら博打はするわ女は買うわ、他にもいろいろ、急に何でもやり始める。次第にどっちが本当の自分だかわからなくなってくるのです。
さらにややこしいのは、この平吉さん、普段はまともな人なのかというとそうではない。嘘ばっかりつくのです。ウソをついて何かをごまかそうとかいう意思はまるでありません。ウソしか出ない、という感じなのです。
例えば、彼は11歳で紙屋に奉公へ出たのですが、その時の主人が大層法華経に傾倒した人で一生懸命お題目を唱えておりましたが、ある日お上さんが店の者と駆け落ちしてしまって何もかも法華経がらみのものを全部焼き捨てた、とか。二十歳の頃に遊んだ女に心中を迫られて、断ったらその数日後に別の男と心中してしまった。どうやら死ぬ相手誰でもよかったみたいだ、とか。ある長年真面目に勤めていた番頭が手をけがした際に代わりに手紙を書いてやったら、宛名が女だったもので、隅に置けないねなんて冗談を言ったら、まじめな顔で姉ですよ、と言われた。けれど、その数日後に金をもって女と逃げられた、とかとか。
全部ウソなのです。彼がいうことすべてがうそなのでした。
そんな彼がなくなったとき、ひょっとこの下にあった顔は、小鼻が落ち、唇の色が変わり、白くなった額に脂汗が浮かんだ、普段の平吉とは全く違う顔でした。同じだったのは、最後までかぶっていた、そうあの口をとがらせてとぼけた顔をしたひょっとこのお面だけ……。
『ひょっとこ』の解説、感想
芥川龍之介としては『老年』、『青年と死』、と来ての三作目の『ひょっとこ』なのですが、描写力が極めて高いというか、知識をふんだんに持ち込み、ち密に書かれています。
芥川龍之介らしい、こう人間の普段は見えない内面の嫌なところを描くことを目指しており、酔った自分も酔っていない自分もどちらも本当の自分ではない、偽りの姿だけが自分であったという皮肉めいた作品になっています。
ところが、まあこの深みというか迫力で言うと、この数カ月後に書く『羅生門』はすさまじいものがあり、比較するとちょっとだいぶ弱いですね。
この間にいったい何があったかというと、幼馴染の吉田弥生との恋が成就しなかったという事件が起こっています。これは単純な失恋ではなく、親同士の家の問題で結婚できなかったのですが、そうした問題が芥川龍之介を一気に覚醒させたようですね。
覚醒する直前の芥川龍之介、という感じで、まあ手練れてますから初々しいという感じは一切ないのですが、天才も初期はこういうの書くんだなとちょっと思えます。
ともあれ、我々ももしかすると、平吉と同じようにひょっとこをかぶって、いつも自分ではない自分を演じながら生きているのかもしれません。ぜひご一読くださいませ。
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