『檸檬』や『城のある町にて』など、その瑞々しい感性と知性あふれる文章で今なお多くの読者を魅了する梶井基次郎は、1932年、昭和7年3月24日午前2時に31歳の若さでこの世を去りました。結核にかかっていたのですね。
梶井基次郎の一生と宿痾たる結核の話
梶井基次郎という人は二十歳くらいの時に肋膜炎に罹り、そこから軽い肺尖カタル、すなわち軽い結核にかかっていました。作家として生きた時代はすべて結核という病気と共にあった人なのです。
それ故、三高という後の京都大学にあたる学校も休学を繰り返し五年をかけて卒業(病気だけでなく、放蕩してたみたいですが)、その後東京大学イギリス文学科に入学しますが、いろんな土地で療養しておりました。
1920年の三高時代には夏休みを療養のため三重県北牟婁で過ごし、9月には三重県熊野に転地。北牟婁で過ごした日々のことは、『城のある町にて』で描かれています。
さらに翌年は伊豆大島、紀州湯崎温泉などにも行き、東大在学中に『檸檬』や『城のある町にて』を発表。しかし1924年の7月に血痰が出るようになり、1年間ほど作品を発表しておりません。その後、『過去』『雪後』といった作品を発表した後、再び肋膜炎が再発。郷里大阪に一時的に戻っています。
また、1926年『Kの昇天』を発表した辺りで東大を中退。川端康成がいた、伊豆湯ヶ島温泉世古ノ滝に転地しました。ちなみに川端康成は梶井基次郎をすさまじく評価しておりました。
そして1927年に精神的転換を図るべく、再び上京。しかし、1929年には呼吸困難な状態に陥ることもしばしばあり、1930年、母の久子さんが腎臓を患った際にその看病中に梶井基次郎は倒れます。それで、6月に長男の謙一さんを頼り、兵庫県伊丹町字堀越二十六番地に行きました。
1931年にはようやく梶井基次郎の初の作品集『檸檬』が出版され、その才能が文壇の一部に認められるようになりました。10月に大阪市住之江区王子町二丁目十三番地に家を持ちました。
が、翌年1932年に最後の作品『のんきな患者』を1月に発表した後、2月に病状が一気に悪化、3月帰らぬ人となりました。
まとめ
つまり、結核に苦しみながら小説を書いていたような人なのですね。当時の結核は不治の病の一つであり、多くの文人もこれで亡くなっています。中原中也とかね。
そういうことを知ったうえで、梶井基次郎作品を読むと、この作家が遺した作品群の切なさ、儚さ、また力強さがより深く理解できるようになるかと思います。