太宰治が現した『駈込み訴え』は正しくは『駈込み訴へ』だそうですが、1940年に発表された、全編が疾走するような矢継ぎ早の語り口で描かれる短編小説です。太宰治の奥様の美知子さん曰く、口述作品だそうで、太宰治が一気にしゃべったそれを美知子さんが書き取ったとか。そりゃまあ、すさまじい才能ですね。
駆け込み訴えとはそもそも何なのか、というと、江戸時代、所定の裁判手続きを経ず、評定所・三奉行所、また幕府の重臣の家、あるいは領主などに直接訴え出ること。駆け込み訴訟。駆け込み願い。というようなことだそうです。ともかく、正当な手続きを経ずにいきなり申し出る、というようなことですね。
まあ、もうとにかく俺の話を聞いてくれというこの語り部のスピード感は、同じく太宰治の代表作『走れメロス』を思わせる疾走感があります。そうです、男は突如として現れ、話を始めるのです。
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『駈込み訴え』のあらすじ
突如駆け込んでくる、一人の男。
申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。
全く素晴らしいかき出しですね……!グッときます。落ち着いて話しなさいというと、三十四の自分と同い年の師を訴えたいのだと申し立てます。彼はその師にひどく軽蔑され、こき使われ、嘲弄されてきたのだと。師はうぬぼれ屋で高慢ちきで鼻持ちならん、あいつは私がいなければ日頃食うものにも困るくせにと。あいつが奇跡を起こすだの、演説するだのして、御礼はいいよ、なんて言ってるけれど、自分が聴衆からひっそり金を集めているのだと。
師は欲もなく、美しい人で、それは自分とは全く違うと彼は言います。彼は商人の出で、いくらか自分の卑しさを知っています。
そんな師に、一度海辺で「お前の寂しさはわかっているよ」なんて言われた時には、あなた一人がわかってくれればそれでよいと思っていたりもします。彼は、師が大好きなんです。皆は師を神の御子として崇めておりますが、この語り部は違う。彼は一人の人間として崇めているようです。
ところが、師がとある無礼をした女に顔を赤らめていたのを目ざとく見つけ、深い嫉妬をするようになります。自分は女に心奪われぬようにしているといるというのに、あの女にあまりに甘い……。
まったくあの人の言うことはでたらめだ。私には何一つ優しい言葉をくれないが、あのような女には優しい言葉を掛ける。このまま醜態をさらすだけだ。一日でも早く、私の手であの人を殺してあげなければ、とさえ思うように少しずつなっていったようです。
そうして、十三人の弟子たちと共に、祭りの夕食を取ったある日のこと。語り部の方はその日まで、いつどうやって売ってやろうかと考えてばかりいました。そんな時に、師は弟子一人ひとり、やさしく足を洗うのです。
やがて、師は、晩餐の時にこう言います。「おまえたちのうちの、一人が、私を売る」さらに、師は言います。
私がいま、その人に一つまみのパンを与えます。その人は、ずいぶん不仕合せな男なのです。ほんとうに、その人は、生れて来なかったほうが、よかった
そうして、その一つまみのパンは、語り部の男の口に押し当てたのでした。
語り部の男は飛び出し、夕闇を走り抜け、そうして、ここにたどり着いたのだと言います。聞き手である商人?は三十銀を語り部に渡します。たった、三十銀(三十銀の価値は、奴隷一人分だそうです)で男は師を売り飛ばします。
物語はこの台詞で終わります。
銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。はい、有難う存じます。はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。
『駈込み訴え』の感想、解説
そう、本作はキリストを銀三十で売り飛ばした裏切者ユダの話です。そこから紡ぎ出される、愛憎入り混じった感情。愛する感情と憎む感情が肉薄して、互いに行き来しながら、自分自身でさえ一体どちらなのかわからなくなっていきながら、語りが疾走していきます。イエスではなく、ユダの感情に寄り添うあたりが、太宰治らしいですね。
非常に弱く、もろく、情けない人間の感情が浮き彫りになっており、神たる聖書を下敷きに、逆に人間の暗部を描いた作品と言えるでしょう。一人芝居を見ているかのような、鬼気迫るものがありますね。
誰より愛しているがゆえに、誰より憎い。そうして、ついにイエスを売るしかなくなった切なさがありますね。切ないという言葉で表現していいかわかりませんが。今の言葉でいえば、もう完全にBLかつヤンデレですね。
ちなみに、なぜユダはイエスを裏切ったのか、というのは聖書においては様々解釈が分かれているそうで、お金に目がくらんだとか、サタンに心を奪われたとかいろいろあるみたいですが、それを太宰治の視点で解釈した作品と言えるでしょうか。