志賀直哉

『城の崎にて』のあらすじ、解説、作者などなど。

投稿日:2016年5月18日 更新日:

城の崎にて
『城の崎にて』の作者は、志賀直哉ですね。1917年、大正6年、同人誌「白樺」にて発表されました。『城之崎にて』でも『城崎にて』でも、もちろん『木野崎にて』でもなく、『城の崎にて』というのが正しいタイトル名になります。

城崎は、兵庫県の北の方、温泉が湧いてるところですね。豊岡市になります。1913年(大正2年)に志賀自身が交通事故にあって、数週間城の崎に逗留したのですが、その時の半エッセイ、半小説、的な作品となっています。いわゆる私小説ですね。城崎には、実際に、志賀直哉が泊まったお宿もあります。三木屋という旅館みたいですね。聖地巡礼するのも良いでしょう。

『城の崎にて』は、非常に短い短編小説でして、『小僧の神様』なんかとセットになった短編集として本屋さんに並んでいるのではないかと思います。2018年現在ですが、青空文庫なんかにはまだありません。

ご存知の方も多いかと思いますが、志賀直哉という人は小説の神様として知られており、谷崎潤一郎が『文章読本』の中で名文として本作『城の崎にて』を挙げています。良く国語の問題なんかでも取り上げられる作品ですので、学生の方は一度読んでおくとテストで得するかもしれませんね。

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『城の崎にて』のあらすじ

山の手線の電車に跳ね飛ばされてケガをした

というなかなかショッキングな書き出しで『城の崎にて』は始まります。どう考えても即死な気がしますが、当時の電車は穏やかだったのでしょうか、背中に傷を負っただけで済んだのですが、養生のために温泉で湯治をすることになりました。脊椎カリエス(脊椎に結核の菌が入り込み炎症が発生した病)に二、三年罹らなければ、まあ別に大丈夫だろうと医者に言われたのですが、念のため治療に来たわけです。

『城の崎にて』は、城崎温泉での逗留の数日間のお話

事故以来、頭ははっきりしないし、物忘れも多くなった。しかしながら、心は妙に静まって落ち着いた気分でした。話し相手もいないので、日がな一日散歩でもして暮らしています。街を流れる小さな流れに沿って歩き、淋しい秋の様子を見て、ひとり考え込んでいました。

心に映るのは沈んだ淋しい考えばかりでしたが、静かないい気持ちもするのです。一つ間違えば自分は死んでいたのだなあと思う。本当ならば、というと変ですが、もしかすると祖父や母の眠る墓に、一緒に横たわっていたはずです。今までは死は遠く先にあったわけですが、事故を契機に妙に死が身近に感じらるようになったのです。

死に行く蜂、鼠、そしてイモリとの出会い

主人公が泊まる部屋の窓辺に蜂がぶんぶん飛び交っていました。ハチの巣があったのですね。それを何ともなくみていたのですが、ある朝、一匹の蜂が死んでいるのを見つけました。あれほどまでに懸命に働いていた蜂が、全く動かなくなり、静かに止まっている。そのあくる晩は雨でした。蜂は流されいなくなっていました。そんな死の静けさに、親しみを感じたのです。

また別の生き物との出会いがありました。それは鼠でした。川面を泳ぐ鼠は可哀想なことに首のところに魚串が刺さっているのです。水から上がろうとすると、串が邪魔で登れない。橋に集まった野次馬たちがそれを見て笑っている。あろうことか石を投げて遊んでいる。鼠は必死で助かろうともがいている。事故にあった時の自分も必死で助かろうとした。あの鼠と同じように。

それからしばらくして、イモリにあいます。イモリは石の上に黒く小さく佇んでいました。イモリをわきの流れに驚かして入れてやろうとふと思い、そばの小毬ほどの石を手に取り投げました。すると、その石がイモリに当たり、死んでしまったのです。

偶然にも命を奪ってしまった自分。全く意味もなく偶然に命を奪われたイモリ。自分はあの事故で偶然に死ぬことはなかった。死んだ蜂は、鼠は、今どうしているだろうか。偶然生きた自分は、宿へと向けてこうして歩いている。それを感謝するような心地はどうもしない。むしろ、生きていることと死んでいることはそれほど差がないのではないかと思えてくる。どうも両極端にあるものではないのではないか……。

それから三年の月日が経ち、ついに脊椎カリエスにはならずに済んでいる。

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『城の崎にて』の感想、解説、解釈とか

志賀直哉自身が事故にあったのは事実だそうで、まさしくこの主人公はすなわち志賀直哉なのですね。彼の生死へのまなざしが『城の崎にて』には描かれています。生と死は両極端にあるものではない。むしろ近しいものではないか、というのを読むと、宮本輝さんの『幻の光』や村上春樹さんの『螢』を思い出しますが、こうした生と死は実は極めて近しいもの、という発想に古今東西ありとあらゆる作家の死生観の原点というものがあるように感じられます。

生と死は隣り合わせに存在している、かもしれない。

どうも死というものはそれほど離れたところにあるのではなく、生きているこちらがわの世界に存在するようなものではないか。生も死も、もしかしたらこの世界に一緒くたになって存在しているのではないか。

私たちは日常暮らしている間、どうしても死という存在はとてもとても遠い存在であり、かつ死はあくまで生の終わり、生こそすべてのように思えてしまうのですが、ふと死に直面するとそういう風に捉えられるのでしょうか。

死を感じ、生との差、距離を考えるにはお勧めの一作ですね。短いし、読みやすいし。この短さの中に茫洋たる生死の広がりが存在しているという意味で、やはり『城の崎にて』は名著かと思います。その先をいかように解釈するかは、あなたの自由です。

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あと、志賀直哉のおすすめ作品ランキングもつくってみたので、こちらも読んでもらえると嬉しいです。







-志賀直哉

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  1. […] とかく散歩をする人で、散歩をしながらこう考えた、みたいな小説が結構多くて、その中で詩人的発見というか発明のようなアイデアを湧きあがらせ、下記まとめる、といった作品が多かったです。志賀直哉の『城の崎にて』みたいな感じでしょうか。 […]

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