『蜘蛛の糸』の作者は、芥川龍之介ですね。芥川龍之介の代表作のひとつです。1918年の作品で、今から100年近く前に書かれた小説ですね。
説話的と言いますか、まるで童話のような物語です。というか、そもそも子供向けの児童文学として書かれた小説なのですね。読んだことがない方でも、大体のあらすじは御存じでしょう。読書感想文にも、よくお題として取り上げられます。
ちなみに、ミスチルの曲のタイトルにもなっていますが、こちらの歌の内容はあんまり本作の筋書きとは関係ないです。
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蜘蛛の糸のあらすじ
お釈迦様が極楽の蓮池からふと下を覗き見ますと、そこは地獄の底の真上に当たる場所になるのですが、地獄の底が見えるわけですね。そこに犍陀多(カンダタ)という大泥棒が見えました。彼はもうありとあらゆる罪を犯したのですが、ただひとついいことをしました。それは小さな蜘蛛を踏みつぶしかけた際に、こんな小さなものでも命があるのだ、いかんいかんと助けるわけです。それを思い出したお釈迦さまは、その場にいた蜘蛛を使いまして、一筋の蜘蛛の糸を地獄へと垂らしました。
地獄の底で苦しんでいた犍陀多は、自分の目の前に静かに降りてきた蜘蛛の糸をつかみ、これをたぐれば真上の極楽までいけるのではないかとぐいぐい登っていくわけです。まあそれはそれは果てしない距離でありますが、そこは天下の大泥棒、そういうのこそ得意なわけであっという間に地獄の針やら血の池などはぼんやり見えなくなってきました。
これはいける、と思った犍陀多ですが、自分に続いて、たくさんの罪人たちが後から後から続いて登ってきていたのです。このようなか弱い糸に何人も登れば、やがては切れてしまう。そう思った犍陀多は、降りろ降りろ、というわけです。
糸が切れたのはその瞬間でした。犍陀多は地獄へと再び落ちていきます。お釈迦さまはその一部始終をご覧になり、また蓮池の周りをゆるりゆるりと散歩されるのでありました。
蜘蛛の糸の感想とか解説
この小説が伝えたかったことは何なのか。本作には、二つの教訓があると思います。
- 生前いいことをすると、お釈迦様が気まぐれでも助けてくれるかもしれない。
- 利己的な行いをすると、ろくなことがない。
本作を読み解くにあたり、どちらを主に解釈するもよしですが、子どもに教えるには、うってつけの教材ですね。その辺りをとっかかりに読書感想文を書かれるとよろしいでしょう。
さてしかし、ならば犍陀多はどうするのが正解だったのでしょうか?
無数の登ってくる罪人というのはお釈迦様が見せた幻だったのかもしれません。あるいは、犍陀多自身が見せた、幻だったのかもしれませんね。私はいつもこの物語を読むと、前者だったのではないかと思えてなりません。お釈迦さまは、犍陀多を試そうとしたのではないかと思うのです。
また、この作品の中に芥川の持つ仏教観というものも見て取れるかもしれません。本来の仏教的に、地獄に落ちたものがお釈迦様のいわば気まぐれで救われる、ということはまずないでしょうから。なお、本作にも元ネタがありまして、ケーラスという人が書いた『因果の小車』という物語だそうです。
そことの比較なんかもしてみると、童話と言っても実はなかなか興味深い作品です。
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