純文学

『おはん』の感想。人間の魔を書いた傑作。

投稿日:2016年2月19日 更新日:

  • 作者 宇野千代
  • 昭和32年6月、中央公論社より発行

作家宇野千代が昭和21年11月から10年間ほどにわたり、一カ月に一枚のペースで書き上げてきた日本屈指の名作。一文一文に血が通い、吟味され尽くした上での表現が連綿と続く。全ての表現に意味があり、推理小説のように練り込まれ、神経を細部に至るまで張り巡らせて書かれている。

いまそこにゐてます女房のおはんにだけは、どうでも悪うは思はれともない。あの男はいまよその女と一しよにゐてるけど、そりゃ、よんどしやうむないことがあつてのことやろ。しんから薄情な心があつてのことではないやろ、とさう思うててもらひたいのでござります。

この男の弱さというか都合の良さを見つめる宇野千代の目は冷たくも常に正しい。

『おはん』は、全編が幸吉という男の語りによる小説である。芸子おかよと暮らす、というかヒモのような暮らしをしている幸吉が、別れた嫁おはんと再会するところから物語は始まる。

以前の妻のおはんとは、おかよとのことが原因で7年前に別れたのだが、二人の間には別れた後に悟という息子が生まれていた。長らく子どもがほしいと願い続けてきた夫婦であったが、別れた後に悟が誕生したのである。

それほど離れたところに住んでいるわけでもないにもかかわらず、一度も出会ったことのない息子。おはんにだけは悪く思われたくない。我が息子と会ってみたい……。ただそれを願っただけだったのに。

人間の魔を書いた傑作

語り部の幸吉という男は、実に「いい人」である。その場その場の顔が「いい」のだ。いつだって優柔不断なところがあり、彼の心はおはんのもとへ、おかよのもとへ、時に悟のもとへと流れていく。つまりは、心の楽な方へ、今この瞬間を逃れるための言葉、行動の折り重なりが取り返しのつかない悲劇へと続いていく。

魔が差す、という言葉があるが、まさしく魔が差した男の小説である。人の弱さ、脆さの恐ろしさと悲しさをしずしずとした筆で書いている。弱い男の心の襞の襞まで入り込んだ宇野千代の精神力はすさまじく、自分もややもするとこの幸吉と同じことをしてしまうのではないかと思わされる。

人間の魔の中に消えていく人間の幸福が実に緻密に描かれている。田辺聖子や宇野千代など、女性作家のスゴイ人は本当にスゴイ。

不倫しようと魔が差す男はいくらでもいるだろうし、いくらでも書けるだろうが、別れた女房への申し訳なさや同情を発端として魔が差す男というのはありそうでなく、この設定からして素晴らしい。

映画 おはん

テレビドラマで2回、映画で1回、映像化されている。特に映画の方は市川崑監督、吉永小百合主演で日本アカデミー賞を総なめしており、一般的にはどうもこちらの方が有名なようだ。が、この小説は本当に素晴らしい。ぜひ読んでみてほしい。







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