セロ弾きのゴーシュは、宮沢賢治の小説ですね。楽隊でセロ、セロはチェロですね、チェロ担当のゴーシュさんのお話です。
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セロ弾きのゴーシュ あらすじ
金星音楽団でセロを弾く担当のゴーシュは、セロを弾くのが下手なのでした。それでいつも、楽団の足を引っ張っており、楽長に怒られていたのです。楽長曰く、感情がないし、他の楽器と合ってないし、君一人のせいでうちの音楽団全体が悪く言われようもんなら困る、とひどい言われようなのでした。
ゴーシュは意外と落ち込むことなく、家に帰ると一生懸命練習するのです。”顔もまっ赤になり眼もまるで血走ってとても物凄い顔つきになりいまにも倒れるかと思うように”弾くのです。
そこへ、三毛猫がやってきます。トマトを持って。三毛猫はトマトをゴーシュに渡し、先生、シューマンのトロメライを弾いてごらんなさいというのです。しかし、そのトマトはゴーシュの畑のトマトですし、赤く熟してもないものですから、ゴーシュは気が立って、ドアを全部締めて、『印度の虎狩』という何とも恐ろしそうな曲を弾き、猫をこらしめてやるのです。挙句、猫に舌を出させて、そこに煙草を押し付けて追い出すというとんでもない意地の悪さです。
三毛猫は飛び出していったのですが、今度はかっこうがやってくる。彼はドレミをゴーシュに習いたいと。面倒だと思いつつ、かっこうの鳴き声に合わせて弾いていると、かっこうの声の方が自分の演奏より良いような気がしてくる。が、ばかばかしくなり、ぴたりと演奏をやめて、かっこうも部屋から追い出してしまいます。
あくる日もゴーシュは一生懸命練習します。そこへ今度は狸の子がやってきました。追っ払おうと狸汁にして食ってやるぞというのですが、ゴーシュさんに音楽を習って来いと言われたのだという純粋な子の言葉に、思わず笑ってしまい、一緒に演奏を始めます。狸の子は、小太鼓の係でした。
『愉快な馬車屋』という曲を二人して弾くのですが、そこで子狸が、どうも二番目の弦を弾くときに遅れてしまうのではないかといいます。ゴーシュの悪いところを指摘してくれたわけですね。
またあくる日には、野鼠が来ました。青い栗の粒を持って、ペコリと頭を下げて、先生、ウチの子を診てやってほしいというのです。というのは、ここらの動物は皆、ゴーシュのセロを床下に隠れて聞くことで治癒しているのだというのです。ならばやってやろうということで、ゴーシュはごうごうチェロを弾きました。するとほんとに、鼠の子は元気になりました。ゴーシュは、一切れのパンをその親子にやり、疲れ果てていることに気づき、ぐうぐうと眠りました。
それから六日して、ついに演奏会の日が来ました。演奏会は首尾よく終了し、大きな成功を収めました。拍手は鳴りやまず、楽団にアンコールを求めました。楽長は言いました、ゴーシュ君、一曲弾いてきてやってくれと。
ゴーシュはもうどうとでもなれという気持ちで、以前三毛猫に聞かせた『印度の虎狩』を弾きました。
するとどうでしょう。楽長も仲間もみんなして、その演奏が素晴らしかったとほめたたえてくれたのです。
セロ弾きのゴーシュ 感想
何てふしぎな話なのでしょうね。一見すると、ゴーシュの周りの動物たちが彼の練習を手伝ってあげたようにも思えますし、動物たちと触れ合うことで彼の性格が良くなったようにも思えます。
が、私が読んで心に残ったのは、かっこうですね。物語の最後はこうして終わります。
その晩遅くゴーシュは自分のうちへ帰って来ました。そしてまた水をがぶがぶ呑みました。それから窓をあけていつかかっこうの飛んで行ったと思った遠くのそらをながめながら「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」と云いました。
狸やら三毛猫やらいろいろ来ましたが、ゴーシュの胸の内にあるのは、かっこうなんですね。かっこうは、ドレミを習いに来たのですが、ゴーシュの手が痛くなるまでかっこうかっこう言い続け、止めろと言われても止めませんでした。ついにゴーシュは怒り出して、追い出そうとするのですが、かっこうは焦ってガラスに激突し、ケガをしてしまいます。それでもかっこうはまたガラスめがけて飛ぶものですから、ゴーシュはガラスを蹴破り、かっこうの行く道をつくってやったのです。
そのかっこうのセリフに、こんなものがありました。
ぼくらならどんな意気地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ。
ゴーシュは、かっこうとのやり取りの中で、自身のドレミよりかっこうのドレミの方がいいなと気づいたりもしたのですが、もしかすると、この言葉に一番の気づきを得たのかもしれません。そして、そのかっこうのひたむきさが、ストイックな彼をより一層ストイックにさせたのでしょう。
楽長は、ゴーシュのソロ演奏を評して、こう言っています。
「いや、からだが丈夫だからこんなこともできるよ。普通の人なら死んでしまうからな。」
それほどまでに、ゴーシュの演奏には鬼気迫るものが宿ったのでしょう。
このかっこうに、宮沢賢治の別作品である『よだかの星』のよだかのような、命そのものをささげてしまうかのようなひたむきさだけが、人のこころを打つのではないかと思いました。
というわけで、セロ弾きのゴーシュ、児童文学に近いものとは思いますが、大人も読んでみるとまた発見があるかと思います。