純文学

種田山頭火の代表作の俳句、略歴、母親のことなどなど。

投稿日:2018年8月20日 更新日:

種田山頭火

種田山頭火という俳人をご存知でしょうか。読み方は、「たねださんとうか」ですね。もしかすると一見すると名前なのか何なのかという感じですが、これは、人名なのですね。

非常に珍しい名前ですが、これはまあペンネームでして、本名は種田正一さんという方です。明治から昭和前半までを生きた、天才俳人です。

ならば、この「山頭火」とは何なのか。その名前の由来は、十干と十二支を組み合わせた六十周期の暦である干支というものがあって、それに陰陽道で有名な五行を割り当てた納音という暦の一つみたいなものがありまして、その名のひとつです。

干支でいうところの甲戌(きのえいぬ)と乙亥(きのとい)という年が該当するのが、「山頭火」です。名前はそこから取られたものですね。と言っても、山頭火の生まれ年は甲戌でも乙亥でもなく、単に響きが気に入ったから取ったみたいです。噴火する火の玉みたいなイメージもあるみたいですが。

明治十五年生まれの文豪で、誕生日は十二月三日です。宮沢賢治中原中也に比肩する、日本最大級の感性の化け物です。

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自由律俳句を多数残した流浪の俳人

種田山頭火の作品は、詩でも短歌でもありません。俳句です。ですから、まあ作家でもなく、種田山頭火という人は俳人なわけですね。

と言っても、俳句は普通五七五で詠まれますが、そこの韻律を一切踏まず、つぶやきのようなきらめく一言を残してきた男です。これを、自由律俳句と言います。

うしろすがたのしぐれてゆくか

とかですね。こうした、通常とは異なる自由なリズムで詠まれるのが自由律俳句の特徴です。

全国を流浪しながら作品を残してきた人で、そのありのままを描く一文の素朴な作風が魅力の俳人です。まあ、松尾芭蕉みたいな人ですね。

そうして紡ぎ出される言葉は何というか、うまいとかすごいとかではなく、凄まじい純粋さがあり、そこに天才と呼ばれる所以があります。

自由律俳句という見慣れぬ文章、またその繊細過ぎる心が映し出す一言、放浪しありのままを映し出すその文章は、亡くなって70年以上が経つ今でも、いやむしろ今だからこそ人の心を掴んだり、まあネタにされたり、2chでスレが立ち、まとめサイトでまとめられたり、山頭火の名言で打線が組まれたりもして、大人気です。

まあ、今でいうところのニートっちゃあニートですからね……。かつ、メンヘラ成分もあって、まあ、平たく言えばアル中ですし、それでいて今なお偉人として名を残してるわけですから、ちょっとうらやましい気もせんでもない……いや、彼はものすごい業を背負った男なんです。

世の中の知名度的には、宮沢賢治や中原中也ほどではないかもしれませんが、私はめちゃくちゃ好きです。山頭火が生きていた時代においては、俳人の世界ではかなり名が通っていた人みたいですが、知名度はイマイチでした。

一気に知名度が上がったのは、亡くなって後年になり、永六輔さんがラジオで取り上げてからだそうです。テレビ東京の「なんでも鑑定団」でメロン食ったお礼にくれた色紙が出されてて、高級メロン食っていった御礼の割にケチな坊さんだなと思われてたものが150万円の値段がついたりしてたので、まあ生きてた当時は一般的な有名人ではなかったみたいですね。

現代では、伊集院光さんとかサカナクションの山口一郎さんとかがファンであることを公言したり、アニメの『文豪ストレイドッグス』で登場したり、何年か前にダンロップのCMで福山雅治さんが詠んでいたり、高倉健さんの遺作になった『あなたへ』という映画で山頭火の俳句が出てきたりと、まあ結構現役で人気の俳人ですね。

ツイッターには、種田山頭火の句を呟き続ける、種田山頭火 句集 twitter botなるものもあるのですが、フォロワー数14000を超えています。人気。

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種田山頭火の代表作

ここで種田山頭火の名句・名作として知られているような、有名な代表作品をいくつか取り上げてみたいと思います。

分け入っても分け入っても青い山

まっすぐな道でさみしい

どうしやうもないわたしが歩いてゐる

濁れる水の流れつつ澄む

窓あけて窓いっぱいの春

ごろりと草にふんどしかわいた

いつもつながれてほえるほかない犬です

あるがまま雑草として芽をふく

いつも一人で赤とんぼ

いつでも死ねる草が咲いたり実つたり

なければないでさくら咲きさくら散る

生死の中の雪ふりしきる

とかが人気も高くオススメかなと思います。

種田山頭火という人は、五十八年の生涯なのですが、八万四千句の俳句を残したそうですよ。一年三百六十五日で、五十八年ですから、日に四つ書いたペースですね……。俳句を詠むために生きてたような人ですね。

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種田山頭火の略歴と母親の影

種田山頭火という人は酒を愛し、流転を愛した俳人で、それだけ聞くと自由気ままに暮らしてた人なんだなという印象ですが、その実、まったくそうではなく、ものすごい苦労した人なんですね。そのすべては、母フサさんの自殺に端を発します。

うどん供へて母よわたくしもいただきまする

とか母親に関する俳句もたくさん残しています。ということで、種田山頭火の経歴、年表、略歴をまとめてみました。その生涯を追ってみたいと思います。

明治十五年十二月三日(0歳)

山口県佐波郡西佐波令村(現在の防府市八王子二丁目)で生まれました。山口県の大地主の出身です。

種田家は当時、「大種田」と称されるほどのお金持ちで、種田山頭火はそこの長男ですから、とんでもなくお坊ちゃんでした。父は竹治郎さん、母はフサさんです。お父さんは村の助役を務められていたそうな。

ただ、結構問題を抱えた家でして、とにかくお父さんが結構イケメンで、女遊びが激しく、何人もの妾を持っていました。

明治二十五年(10歳)

それで気を病んだお母さんのフサさんは、三十三歳の若さで自宅の井戸で投身自殺をしました。そこから引き揚げられる母の水死体を山頭火は目の当たりにしたと言います。その出来事は、種田山頭火の人生に生涯影を落とすことになります。

第二句集として発行された『草木塔』において、その序文に種田山頭火は

若うして死をいそぎたまへる
母上の霊前に
本書を供えまつる

と書いています。

明治二十九年(14歳)

私立周陽学舎という山口県の学校に入学します。このころ、学友と文学回覧雑誌を始め、俳句を作り始める。俳人種田山頭火のはじまりです。と言っても、まだこのころは山頭火という名前ではなく種田正一という名前でした。

明治三十二年(17歳)

私立周陽学舎を首席で卒業。頭がよかったんですね。それから県立山口尋常中学に編入しました。

明治三十四年(19歳)

中学を卒業した後、現早稲田大学の高等予科である私立東京専門学校に入学。ここで最初の上京となります。

明治三十五年(20歳)

早稲田大学に九月に入学。種田山頭火の出身大学は早稲田だったんですね。

明治三十七年(22歳)

神経衰弱のため、二月で大学を中退。非常に繊細な方だったようですね。しばらく東京にいたようですが、七月に山口に帰郷しました。ということで、最終学歴は、早稲田中退となります。

ところが、この帰郷したころには家業は激しく傾いておりました。もう「大種田」ではなくなっていたのですね。

明治三十九年(24歳)

家をうっぱらって、近場の酒造場を居抜きで買い取って、酒造業を父の竹治郎さんとスタート。種田酒造場という名前です。酒と種田山頭火は切っても切り離せませんが、そんな山頭火が酒造をお父さんと始めたというのはなかなか文学チックです。

明治四十二年(27歳)

この年の八月に佐波郡和田村の佐藤咲野(サキノ)さんとお見合い結婚をしました。どうも、お父さんからの強い勧めで結婚したようで、これは山頭火にとっては望まぬ結婚だったようです。

明治四十三年(28歳)

そうは言いつつも結婚した翌年、子宝に恵まれました。健さんという息子さんです。山頭火の子孫とか末裔というのは、この方だけみたいですね。娘さんはいません。

ちなみに、この息子さんの情報というのはほとんど出てきません。山頭火が亡くなった際には満州におられたようですが。孫がいるとか、情報がありませんでした。

さて、このころから、種田正一は、山頭火という名を名乗って文芸活動を本格化させていきます。ちなみに、そのちょっと前は田螺公(たにしこう あるいは でんらこう)という名前を使ったりもしていました。

山頭火という名前でない頃は、自由律俳句でない定型俳句を書いたり、海外文学の翻訳もしてたみたいですね。

大正二年(30歳)

雑誌『層雲』の主催者であった萩原井泉水に師事しつつ、『層雲』に自由律俳句を投稿し始めました。ちなみに、この萩原井泉水の井泉水という名前も、納音からきています。師事した井泉水が納音からきていることから、山頭火もそれに倣ったということですね。

なお、萩原井泉水の弟子には、尾崎放哉という人がおりまして、種田山頭火にとっては兄弟弟子的な人なのですが、この人も自由律俳句で知られる人ですね。自由律俳句の双璧をなすのが、尾崎放哉とこの種田山頭火なわけです。

大正五年(33歳)

俳人として認められ始め、俳句誌『層雲』の選者にもなります。その一方で、種田酒造場は破産し、種田家は一家離散の状態となりました。お父さんはこれより行方不明になっています。

山頭火は奥さんの咲野さんの実家がある熊本に妻子とともに移り、古書店「雅楽多」を開業するのですが、これも上手くはいかなかったみたいですね。とにかく、仕事がダメな人でした。

また、この頃、一家離散した後に親戚に引き取られた弟の次郎さんが自殺したりもしています。辛い。

大正九年(37歳)

熊本にいては仕事にならんということで、妻子をおいて仕事を求めて上京。するものの、妻サキノと離婚することになります。この時期、山頭火は東京市事務員として一ツ橋図書館に勤務していました。

大正十二年(40歳)

九月一日、関東大震災があった年ですが、この混乱の中、社会主義者と疑われて巣鴨刑務所に拘置されました。当時、そういう時代だったんですね。もう踏んだり蹴ったりな山頭火は、行き場を失くして、別れた妻のいる熊本市に戻ることになりました。

大正十三年(41歳)

山頭火はこの年、泥酔して熊本市電を止めるという事件を起こします。この人、凄まじくお酒が好きな人で酒豪でしたが、この時は単に泥酔していたからではなく、自殺未遂だったみたいですね。

山頭火が遺した『赤い壺』という随筆があるんですが、この中には酒を飲みたい自分と酒に飲まれたくない自分との葛藤のようなものを書いており、何でしょうね、豪快な酒好きでなく、繊細な弱い飲まれるタイプの酒飲みのようです。

大正十四年(42歳)

自殺未遂を引き起こした種田山頭火は、曹洞宗報恩寺に放り込まれまして、望月義庵のもとで出家することになります。耕畝(こうほ)という法名を授かりまして改名をし、熊本県鹿本郡植木町見取の観音堂の堂守となりました。

ここでお坊さんになったわけですね。

大正十五年(43歳)

種田山頭火は漂泊の旅に出ます。「行乞流転の旅」というやつですね。行乞というのは、お坊さんが物乞いしながら歩いて行く修行のことです。なぜに彼は旅に出たのかというと、この年、先に述べました兄弟弟子の尾崎放哉が亡くなっています。それも関係したようです。

一生歩き回っていた人のイメージがもしかしたらあるかもしれませんが、彼の旅は四十三からなんですね。山頭火は住みかであった熊本を出て、各地を旅してまわります。そして旅をしながら俳句を書きまくり、「層雲」に寄稿を続けました。

日本全国を行脚してますので、種田山頭火の歌碑というのは全国に五百くらいあるのだとか。あなたの家の近所にもあるかもしれませんね。なお、山頭火は長い旅に出る際は必ずお母さんのフサさんの位牌を持って歩いたそうな。泣ける。

昭和四年(47歳)

北九州地方辺りをを旅してまわり、三月に熊本の「雅楽多」に戻りますが、またしばらくしてまた旅に出て、また「雅楽多」に戻って……と各地を転々としています。

昭和五年(48歳)

この年の九月、種田山頭火は以前の日記をすべて焼き捨てました。だから、日記はこれ以降しか残っていないそうです。

焼き捨てて日記の灰のこれだけか

という句を残しています。

昭和七年(50歳)

山頭火の第一句集となる『鉢の子』を出版しました。この辺りから旅を続けるのが困難となり、十二月、山口県山口市小郡町矢足に「其中庵(ごちゅうあん)」を結びますが、体調不良から自殺未遂を再度起こしています。

なお、「其中庵」では最初の頃は周りの住人に不審な坊主が住み着いたと嫌がれていましたが、有名な俳人が多く訪れ、たくさんの人が集まって句会が行われる中で、信頼を得ていったというエピソードがあります。

すごいですね、感性が生きるよすがだったんですね。

昭和九年(52歳)

信州長野県にある江戸後期に活躍した俳人・井上井月の墓参りのために旅に出ます。この井上井月という人も、流転の俳人でした。しかし、この度の最中で肺炎にかかって入院し、「其中庵」に戻っています。なお、この年に第二句集『草木塔』を出版しました。ちなみに、この『草木塔』が一番オススメの句集なんではないかなと思います。

昭和十一年(54歳)

今度は、東日本に向けて旅に出ます。大阪、京都、伊勢、東京、信濃、新潟、山形、仙台、岩手の平泉まで行っています。それで「其中庵」に戻って生きています。

この前後で、『山行水行(さんこうすいこう)』・『雑草風景』といった句集を出版したり、その最中にカルモチンを大量摂取して死にかけたりと限界まで山頭火は追い詰められていきました。

昭和十三年(56歳)

「其中庵」がぼろぼろになってきましたので、湯田温泉に移動しまして、「風来居」を結びました。湯田温泉と言えば、中原中也ですね。

あと、種田山頭火は温泉好きでもありました。湯平温泉に行ったり、日奈久温泉に行ったり、湯布院に行ったり、伊豆に行ったり。まあ、温泉はみんな好きですね。

昭和十四年(57歳)

九月には再び旅に出て、「風来居」から四国へ渡ります。これが山頭火最後の旅となります。高知行ったり、徳島行ったりしつつ、この旅の中では四国八十八箇所遍路も行っています。著書に「四国遍路日記」というものもあったりします。

四国を旅して、そして、最後は愛媛県は松山に「一草庵」という庵を結びまして再び腰を据えます。なお、ここがついに最後の住みかとなりました。

松山というと、夏目漱石の坊ちゃんだったり、正岡子規や高浜虚子のゆかりの地だったりと文学の土地、という感じですが、何か作家や俳人を惹きつけるものがあるのでしょうかね。一草庵は、道後温泉からもほど近い場所にあります。

昭和十五年(58歳)

最期はころり往生したいというのが種田山頭火晩年の願いだったのですが、脳溢血、その後心臓麻痺で亡くなられました。死因としては心臓麻痺ですかね。

「一草庵」での句会の後に眠りこけ(その時点で脳溢血で倒れてたみたいですが)、そのまま静かに亡くなったようで、その願いは叶ったようです。苦労してきた人生で、まあその夢は叶ってしまうというのはなかなか悲しいというか、何というかですが。

命日は十月十一日。種田山頭火が最後に遺した辞世の句は、

もりもり盛りあがる雲へあゆむ

です。

山頭火は生涯を振り返り、晩年の日記に

無駄に無駄を重ねたやうな一生だつた、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたやうな一生だつた

と記しています。何でしょうね、壮絶なる人生です。

なお、山頭火のお墓は二つあるようで、ひとつは防府の護国寺裏共同墓地にあります。もうひとつ、分骨されたお墓がありまして、こちらは元お嫁さんの咲野さんと一緒に、熊本市の安国禅寺にて眠っています。

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種田山頭火の記念館、山頭火ふるさと館

種田山頭火の記念館は、生まれ故郷の防府市にあります。平成二十九年に設立されたばかりで、結構新しいんですね。

壁一面で種田山頭火の生涯が紹介されておりましたり、句を投稿した雑誌、種田酒造で使っていた徳利なんかが展示されています。

最寄りの駅は、JRの防府駅になりますが、そこには種田山頭火の銅像もありますから、併せて見てみるといいでしょうね。

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<++h2>種田山頭火作品の購入先

昭和十五年、すなわち1940年に故人となられていますので、著作権はすでに切れており、青空文庫で著作を読むことができます。AmazonのKindleストアなんかでも無料で読むことができますね。

もちろん、岩波文庫だったり、ちくま文庫だったり、私が持っているのは春陽堂書店というところの山頭火文庫だったりしますが、いずれでも構いません。ぜひ漂泊の俳人、種田山頭火の世界に触れてみてください。

全集は下記のリンクから。超安くておすすめの電子書籍です。

種田山頭火の名言

では最後に、種田山頭火の名言を一つご紹介します。

理解のない人間に会うよりも、山を見、樹を眺め、鳥を聞き、空を仰ぐ方がどのくらいうれしいかは、知る人は知っている







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