- 作者 宮本輝
- 『五千回の生死』収録
トマトの話 あらすじ
短編集『五千回の生死』の一作目を飾る作品。
中小以下の広告会社の昼休みに同僚同士で披露しあう、過酷なアルバイトの体験話。主人公の小野寺孝三が語ったのは、工事現場の交通整理のアルバイトで出会ったトマトをほしがる男の話。飯場に横たわった死の縁にいる男は、小野寺に「トマトがほしいんじゃが……」と依頼する。
あくる日、小野寺はバイトに向かう前に5つのトマトを買い、男に渡す。男はいとおしそうにそのトマトを抱きしめ眠る。
それから数日後、男は、小野寺にもう一つ依頼をした。この手紙を郵便に投函してほしいと。宛先は鹿児島。この手紙は、何なのか。
それから数日後、工事現場に救急車が入ってくる。男が血を吐き、死んだのだ。飯場には男が吐いた血の中に、熟れたトマトが落ちている。男は、トマトをひとつも食べることはなかった。血の中に落ちたトマトは、まるで男が吐いた血だまりのようだった……。
というようなお話。結末が素晴らしいので、ぜひ読んでみていただきたい。
人生の深淵
わずか原稿用紙三十枚の小説は、恐るべき人生の深淵を描いている。底知れぬ井戸を覗き見たかのような読後感を与えてくれる。すべてが無為となり、若き小野寺に残ったのは途方もない徒労感と深い後悔の念だ。
誰もがどうにもならない傷を背負って生きていることを感じられる。心の深いところで共感し、癒しを感じる人もいるだろう。
短編小説には特有の余韻があるが、『トマトの話』はずば抜けている。これ以上余韻のある短編作品があれば、ぜひ教えてほしい。
あなたはトマトを5つ買うだろうか?
さて、主人公小野寺は少しでも日当の高いものをと、この工事現場の仕事を見つけ出した。彼は当然お金のない貧乏学生である。ここで着目したいのは、出会ったばかりの床に伏せった男からの「トマトがほしい」という問い掛けに小野寺が5つ買ってきたことである。
普通に考えれば病床の老人が食べる分だけのトマトだから、まあ2つ。多くて3つだろう。貧乏学生ということを加味すれば、また飯場の女の対応を考えれば狂人であると判断してもおかしくない。ひとつ買って渡してあげれば、十分だろう。しかし、彼は5つものトマトを買ったのだ。
出会ったバイトの青年が自分のために食べきれないほどのトマトを買ってきてくれた。最後の瞬間、老人は幸福を感じて死んだのではあるまいか。だからこそ、手紙を小野寺に託したのだろうが……。より一層結末にやるせなさは募る……。
[…] 闇を描いて光を見せ、死を描いて生を浮かび上がらせる。『トマトの話』しかり、もうひとつ私がこの短編集で大好きな『バケツの底』しかり、この時期の宮本輝氏には、いったい何が見えていたのだろう……。 […]